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村上 義弘(むらかみ よしひろ、1974年7月6日 - )は日本の競輪選手。京都市出身。日本競輪学校第73期卒業。日本競輪選手会京都支部所属。初出走は1994年4月9日の小倉競輪場で初勝利は同開催の11日。血液型はO型。3姉弟の真ん中で姉と弟がいる。 弟の村上博幸(86期)も競輪選手。 == 戦績 == 花園高等学校在学中より、国体の自転車競技で優勝するなど活躍する。高校3年生の時に先輩で現役競輪選手の山本真矢に紹介され、松本整〔直接の師弟関係ではないものの、村上は松本を「心の師匠」と表現した。 (日刊プロスポーツ新聞社 - 京都向日町競輪場 開設56周年記念【平安賞】 )〕と出会う。松本と出会った当初は、バンク練習で松本についていくのが精一杯で、「30代(当時松本は33歳)でこんな強い選手がいるのか」と驚愕するほど、競輪選手のレベルの高さを思い知らされることとなる。 高校卒業後に第73期生として日本競輪学校に入学する。卒業後は徹底先行を身上とする選手としてその名を高めたが、怪我などもあってなかなかS級上位で活躍する選手とはなれなかった。しかし、2000年の豊橋競輪場でのふるさとダービー豊橋を制した頃より次第にその強さを増していった。 ; 2002年 GI初優勝 2002年7月28日、寛仁親王牌決勝戦。この決勝戦には村上に加え、松本整、伊藤保文(2008年下期S級1班)と京都勢が3人残った。レースは村上が打鐘(残り1周半)から先行、最終的に4着となったが、その後ろをマークした松本が優勝(このレースで松本はGI優勝最年長記録を大幅に更新した)。村上自身は敗れたとはいえ、レース後は大粒の涙を流し、何度も松本と抱き合った。村上自身、競輪の厳しさ、そして努力に勝る才能はないことを教えてくれた大先輩に恩返しができたことで、「今までで一番嬉しいレース」と振り返っている。 その直後8月のふるさとダービー弥彦(弥彦競輪場)でGIIをまず制覇、そして岸和田競輪場での全日本選抜競輪を優勝、遂に念願のGIタイトルを獲得。そして、年末のKEIRINグランプリの初出場も果たした。 2003年にはふるさとダービー向日町(京都向日町競輪場)、一宮競輪場でのオールスター競輪、翌2004年にはふるさとダービー福井(福井競輪場)を制するなど、村上の活躍はピークを迎える。 この後村上は極度のスランプに陥り、記念競輪(GIII)でも満足に勝てない状況が続いた。しかし2004年6月に先輩の松本整が引退してからは、正式に松本の下で指導を受けるようになり、肉体改造や走行フォームの修正などを共に取り組む。これにより次第にスランプからは脱却しつつあると評されるまでになり、2007年には日本選手権競輪で久々の決勝戦進出を果たすようになった。 ; 2010年 兄弟での活躍 2009年には地元近畿地区の岸和田で行われた日本選手権競輪で決勝進出を果たし、記念競輪でも好調であったことから年間獲得賞金上位となる。2010年は自身初のS級S班格付となり、弟の村上博幸と共に、兄弟で同時にS級S班格付となった。同年1月の向日町記念決勝で弟博幸と連係し、自身の優勝で兄弟ワンツーフィニッシュを決める。さらに3月の日本選手権競輪(松戸競輪場)では念願のGI決勝戦兄弟同乗が実現。山崎芳仁のラインが後方に引いたところを見計らい打鐘からカマシ先行を決め、番手から追い込んだ弟博幸に初のGIタイトルをもたらした。また自身も2着に粘り、1976年のオールスター競輪での藤巻兄弟以来史上2例目のGI決勝兄弟ワンツーフィニッシュを記録した。 直後の4月に小松島競輪場で開催された共同通信社杯競輪春一番の決勝では、最終ホームからの先行でそのまま押し切り優勝し6年ぶりにGIIタイトルを獲得し、7月の寛仁親王牌決勝では市田佳寿浩に優勝へのアシストをする形で2着に入り、年間獲得賞金が1億円を突破したことから賞金枠でKEIRINグランプリ2010への出場を決定させ、弟の博幸と史上初の兄弟出場となった。そのグランプリ2010では弟の前を回り、自力の捲りを不発にされ7着となったものの弟の優勝をアシストする形になった。 2011年もその活躍は続き、3月の名古屋競輪場での日本選手権競輪を制覇。2003年以来8年ぶりとなるGIタイトルを奪取し、史上初となる兄弟でのダービー連覇を達成した。これにより出場権を得たKEIRINグランプリ2011は最後の直線に入った所を目の前で転倒した長塚智広に乗りあげる形で落車し再乗8着となる。 ; 2012年 KEIRINグランプリ初優勝 2012年はサマーナイトフェスティバルの決勝2着を含め、GI決勝3回・GII決勝2回進出とコンスタントに成績をまとめ、年間獲得賞金上位でKEIRINグランプリ2012の出場権を得た。ところがグランプリに向けての練習中に自転車のチェーンが破断して落車し肋骨を骨折したが、それを公表〔村上義弘が練習で落車!ろっ骨を骨折 - 日刊スポーツ2012年12月19日〕した上で12月30日の本番に挑み、ゴール前まで成田和也と浅井康太との三つ巴のデッドヒートを僅かの差で制しグランプリ初優勝、兄弟でのグランプリ制覇と年間賞金王獲得を達成した。 ; 2013年-2014年 ダービー連覇、2016年 名古屋ダービー3連覇 2013年は日本選手権競輪の決勝において、早い仕掛けで各ラインの連携が交錯するなか武田豊樹の後位へスイッチした読みが当たり、最終バックで捲った武田を直線で追い込み2年ぶりのダービー優勝を果たした。 同年12月、新選手会SS11の移籍騒動が起こり、村上は長塚智広、武田豊樹と共にこの騒動を主謀したとして、日本競輪選手会より翌2014年5月1日から1年間競走出場自粛を言い渡された。その自粛期間直前、2014年3月の名古屋競輪場での日本選手権競輪決勝で、京都ラインで先行した稲垣裕之を好追し、また3番手を回った弟博幸の援護もあって見事ダービー2連覇および3勝目を果たした。その後予定通り自粛に入ったが、後に自粛期間が3ヶ月に短縮されたことで2014年8月より復帰し、グランプリの選出要件も満たしたことからKEIRINグランプリ2014に出場できることになり(詳細はSS11 (競輪)の項を参照)、3着となる。 2015年も特別競輪決勝進出2回などによる年間獲得賞金上位枠でKEIRINグランプリ2015への出場権を獲得したが5着となる。 2016年は日本選手権競輪の決勝において、三谷竜生 - 川村晃司の3番手からブロックで後方への牽制を繰り返し、自身もブロックされながら堪えて最後の直線で2段駆けの川村を差し切りダービー4勝目(名古屋ダービーでは3連覇)を果たし、吉岡稔真の大会最多優勝記録に並んだ。41歳での優勝で、鈴木誠の39歳11か月(2005年3月)の大会最年長記録も更新した〔【名古屋ダービー】村上義が最多タイ4度目V!41歳最年長記録 - スポニチ〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「村上義弘 (競輪選手)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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